4代目ストーリー

小さい時から粉まみれ

 私は、1976年、酒田大火という大火災が起こる一週間前に生まれました。
 生まれた時は、首に3重にへその緒が巻かれていて、泣きもせず危険な状態だったそうです。なぜか、生まれるときからピンチの連続だったようです。

 さて、その当時の弊社は、自宅の脇に石材を加工する工場があり、朝早くから夜遅くまでお墓を作っていたそうです。

 もちろん、今のような中国加工などもなく、切削から加工、研磨に至るまで、すべてを自社でやっていました。
 家族全員で営んでいたという事もあり、赤ちゃんだった私を乳母車に入れ工場に置いて作業していたそうです。

 昔は、石を切る機械に消音機能もなく、石を切る凄まじい音が鳴り響き、さらに集塵機なども無かった為、加工の際に出た粉じんは相当だったようです。
 そのような状況ですので、作業が終わり帰る頃になると、乳母車の私の鼻の周りや顔などが粉まみれになっていたと、大人になってから聞いた時はショックでした。
 そんな事も知らないで育った小学生の頃は、近くの神社や会社の工場が、遊び場になっていました。両親が働くそばで、加工の際に出た石の欠片の山に登ったり、珍しい形の石を夢中で探したりして遊んでいました。また、機械で磨けない部分は、砥石を手で持って磨くのですが、その時の香りは独特で私にとっては落ち着く香りでした。
 ただ、工場で石を切っている時は、その轟音が恐怖心を煽るのか、あまり遊びに行きませんでしたが・・・。 

 このように両親の働く姿を見ながら、小さな頃から石に触れ、石を加工する音や香りの中で育っていきました。

 こういった環境で育ったものですから、高校に入った頃には、自然と石屋になるものだと思うようになっていました。
 何せ、小・中学校のあだ名は「いしや」でしたし、・・・今もですが。(笑)

石屋の修行

 高校を卒業すると、愛知県の岡崎市にある石屋さんに修行の為、就職しました。
岡崎は、石の産地で有名であるとともに多くの石屋があり、石工団地といった場所もあるほどでした。

 そこで、お墓の加工から磨き、施工に至るまでを教わりました。
やはり、職人の世界ですので厳しく叱られたり、技術がなかなか手に付かず悩んだりもしましたが、不思議とつらいと思ったことはありませんでした。
 日々新しいことを教わり、一つのことを覚えると次のまた難しい技術を教わり、
石の加工や磨きの楽しさを感じる毎日でした。
 また、同期で入った他県から来た同僚との寮生活では、夜遅くまで石の加工や磨きの技術のこと(関係ないことも含め)を語り合っていました。
今思い返すと、新しいことを知るという『わくわく、ドキドキ』を、日々感じ夢中で生活していたように思います。
この修行時代に学んだことは現在、石屋として働いている全ての基礎となっています。

転機

 そんな岡崎での修行の日々にも慣れ、後輩も入ってきて暫らく経った頃に、石屋のことだけを考えていた私を立ち止まらせる出来事がありました。
 あることで、職人さんとケンカになってしまったのです。
 そのことで、今まで楽しく過ごしていた日々にふと疑問が生まれたのです。
このままここで修行して4年間を過ごし、帰郷して生涯石屋一筋でやっていくことが良いのだろうか? 世の中には様々な職業があるのに、若い時にしかできない仕事もあるはず、それを経験しないままでいいだろうか?
 今思うと、職人さんとケンカをして居づらくなったことからの〝逃げ〟の考えも半分はあったのかと思います。
 会社を辞める時には、父にはだいぶ迷惑をかけてしまいました。
 私の行動を何も言わず、許してくれた父には本当に感謝しています。
若い時の勢いだけ、思い込みだけの決断だったかもしれませんが、1年9カ月で岡崎での生活は終わり、何も当てもないまま大阪へ行き単身生活を始めました。

 大阪では、様々な職業を経験しました。
 豚肉の解体整形をする肉屋さん、ファミレス、パチンコ屋、引っ越し屋、何でも屋等々、もっと石屋の技術に関係しそうな仕事だったら良かったのですが。

 当時は、正反対の分野の仕事に興味があり、とにかく様々な仕事を経験することを考えていました。
 しかし、一年と少し過ぎた辺りから、岡崎での修行の日々が思い出されるようになってきました。実際、大阪では、あれほど夢中になって仕事をしたことがありませんでした。新しい仕事で学ぶことはありましたが、心から楽しいとは思えなかったのです。
 そんな時、「そろそろこっちに戻って仕事を手伝ってくれないか?」
困っているような声で父親から電話がありました。
 痛風で仕事もままならなくなっていた事を、以前に電話で聞いていました。
 岡崎で持っていた疑問や迷いもなくなっていた私は、帰郷し石屋を継ぐことを決断しました。

石屋としての思い

 昭和50年代からバブルと言われる時代にかけ、建墓数の増加、加工機械の進歩、中国輸入の増加と、石屋業界も目まぐるしく変化していきました。
 次から次に入ってくる仕事をこなすだけで手いっぱいというような時代だったようです。
 そんな時代を経た石屋は、お墓の建てることの意味を考えることもなくなり、
建てることが目的になっていってしまったように思います。

 工期までに建てるのがプロ、もちろんそれはそうなのですが、ただ仕事が早ければ職人だと完全に勘違いをしてしまった石屋が多くなった時代だったのかと。当然、仕事も雑になり、ある程度の妥協も仕方無い状態だったのが、当時建てられたお墓を墓地で見ると見受けられました。
 しかし、私の職人像は違っていました。
「自分の仕事に誇りを持ち、妥協せず、自分の技術の限りを尽くし、
お客様に感動を与える人 」
こそが職人だと思っていました。
 それは、修行先の会社で経験したある出来事がきっかけでした。
 非常に難しいお墓の部材の研磨作業を、急ぎで頼まれました。
 しかし、妥協はしたくなかったので、最高の磨きにしようという気持ちで石に集中し丁寧に精一杯磨きました。

 なんとか時間内に自分でも納得のいく出来栄えに仕上がり、現場の施工担当に品物を渡した後、次の磨きの仕事に取りかかりました。
 それから何日か過ぎ、石を磨いていると職人さんから、
「この前磨いたお墓を見たお客様、すごく磨きが良いって喜んでくれてたぞ」と教えてもらったのです。それは職人が見れば分かるくらいの違いにも思っていましたが、お客様はそれを見て感じとってくれたのです。本当に嬉しかったのを鮮明に覚えています。
 その時から私は、しっかりとした仕事をすれば、作り手の思いはお客様に伝わる、石を通して気持は伝わると思うようになりました。
 それを、弊社のキャッチコピーの「まごころを石にこめて」に表しています。

 現在、これまでの違法建築や食品偽装問題さらに、不況の時代ということもあり、お客様はまずは調べ比べるなど、良いものとそうでないものを判断するようになっています。
 そのような良し悪しの判断をしっかりとできるお客様が増えた今の世の中では、本物しか生き残れません。皮肉にも不況や数々の世の中の問題が、石材業界においても
『お客様の幸せや満足のため』
というお墓を建てる側の私たちの心持が原点へと戻りつつあります。

 弊社は、昭和四年から数え、令和五年で創業九十四年になります。
 初代 三浦乙吉、二代目 三浦光男、そして、私の父の三浦勇平が三代目です。
そして現在私が四代目になります。
 私は、ご先祖様から受け継いだ「石屋」という職業を続けていきたい、
そして、この会社が代々続く石屋でありたいと思っています。

「なぜ、お墓づくりをするのか?」と問いかけられたとしたら、
 ただ単純にこの仕事が好きだからです。
私は、石を加工するのが好きです。
石を磨くのも好きです。
家業の石屋が好きなのです。
そして、すべてが合わさり、まごころをこめたお墓づくりをすれば、
お客様に喜んでいただけると思っているからです。

最後に

 お客様がご先祖様・故人へのご供養と感謝を大切にして、その先もお子さん、お孫さんもご家族で笑顔でお墓参りをされていく、小さくも尊い幸せな光景を思いながら、これからもお墓を作っていきたいと思います。

 最後までお読みいただき誠にありがとうございました。

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